昭和五十一年十二月十八日朝のご理解
                                松永享四郎

ご理解第三十六節

「日本国中のあらゆる神を、みな信心すると云うが、それはあまりの信心じゃ。人に物を頼むにしても、一人に任すと、その人が力を入れて世話をしてくれるが、多くの人に頼めば、相談に暮れて物事はかどらず。大工を雇うても、棟梁がなければならぬ。草木でも芯というたら一つじゃ。神信心もこの一心を出すと、すぐおかげが受けられる。」


 一心を出すと云う事を教えておられる、三代金光様は一心の真と、云う事を云うておられます。
 一心の真、ここでは、一心の信心の真を表すと云うております、信心の真を表わす、今でもやはりそうでしょうけれども、いろいろ、これは私の事を云うてもよいですけれども、昔の先生方が教師になられると、確かに人の真似の出来ん様な、良い信心をなさるにもかかわらず、おかげにならん。
 何をしても、面白くない、そこで、お道の教師を志される方が昔は、多かった、一生懸命願うから、おかげが頂けるかに見えるのだけれども、本当のおかげにならない。
 そこで、なら一心を立てて、お道の教師にお取立てを頂くと、云う風に一心が定まる、そこから、確かにおかげが頂ける、何をしてもいけなかったんだけれども、お道の教師にお取立て頂く事になって、一心と定まるから、そこからおかげが頂けると、それこそ人が助かる程しのおかげにつながって、これは、神様が、愈々一心を出させて下さるための、すべてが、ご演出であったと云う風に思います。
 一心と云うたら、私は、その位のものが一心だと思うですね、何をしてもいけない、おかげまあ頂くから、やっぱり神様が愈々判って来るのだけれども、本当のおかげにならない、私共の場合でも、お商売させて頂いとる間に、まあ、場合には本当に神様のおかげを頂いておるしるしに、置いた物を取る様におかげを頂く、そう云うおかげを頂いて、神様を信ずる力は愈々出来て来る。
 来たのにもかかわらず、結論としては、おかげにならない、こまごまとおかげは頂くけれども、大きなところが、本当のおかげにならない、そこで、お取次ぎ下さる親先生も、なら、大変不審に、これほど、神様を生き生きと頂いて、おかげを頂いておるのに、本当のおかげにならんのは、どう云う訳かと云うので、当時の教主である、三代金光様に、お伺いを立てて下さった。
 ところが、金光様は、道の教師としておかげを受けられたら結構です、と云うお言葉であって、そこから、一心が定まった、一心が定まったら、云わば本当にすぐにおかげが受けられると仰有る、すぐにおかげが頂ける様になった。
 と云うのは、神様から、お知らせを頂く様になり、神様のお指図のままに、修行させて貰う様になり、そう云うおかげであった、もう本当にこれは、昔のお話を受けられた先生方の、専売特許の様なもので、とても私共の様な信心をさせて頂く者が、神様からお知らせを頂くなんて、本当に、夢思わないことであった。
 そりゃ、願ってみた事があります、もう一心不乱に一晩中拝んだ、そして、ここに神様から何かはっきりお知らせを頂いたら、心が安まる、心が決まる。
 一家を挙げて一生懸命信心させて頂いて、どうしてこの様な事が起こっただろうか、私の弟の、戦死の公報なんかもそうであった、終戦の年のしかも、8月15日が終戦だと云うのに、7月30日に亡くなってますからね、これほど、神様にお縋がりし、お願いし、一家を挙げてお願いしているにもかかわらず、もう15日間何とか引き延ばしのおかげを頂いておれば、無事に凱旋出来たのに、どげん考えても、神様どうして、と云う心が起きて来る。
 そこで、神様は、これは実はこう云う事であったぞと、神様から、一言お話を頂けば、私の胸も納まる、家族の者も、まあそれで、云うなら、そう云う話でしたかと云うて安堵も出来る。
 この侭じゃとても合点が行かん、どうぞ、無事凱旋ばかりを、それこそ7年間もお願いして来たにもかかわらず、しかもあと15日、神様が何とかして下されば、無事に凱旋出来たのに、8月15日は終戦になるのに、7月30日にお国替えである、もう云うならば、目も当てられんと云う感じでした。
 そんな時に、私は、その公報があった月から、本部参りを続けております、楽じゃありませんでした、大変窮屈な中に、親先生が月参りされますから、月参りさせて頂く事に、それこそ一心と定めた、本当に何とはなしに、おかげを、旅費の上におかげを頂いて、まあ、何とはなしと云うが、大変やはり、どうでもこうでもと云うのですから、大変なまあ、無理なお願いであり、お繰り合わせを頂いてからの事でありました。
 けれども、まあ兎に角、お参り出来なかった事は一遍もなかった、必ずお参りが出来た、だからね、この一心を立てると、神様がどうにかおかげを下さるんです、お繰り合わせを頂いたら、お参りしようと云う事ではないから、もう、お繰り合わせ頂かねば、歩いてでも参ろうと云う様な一心を定めた。
 そして、私が月参りを始めた一番初めの月が、その終戦を聞いた月からでしたけれども、それは、私に魂胆があった、どうでも一つ、奥城なら、奥城に一晩中座って、一晩泊まってから、翌日のお祭りを頂いて帰っとります。
 一晩中座っての一生懸命のご祈念を致しましたけれども、それこそ、お知らせのおの字もなかったですね、今から、とてもとても私どん、凡人凡夫で、神様からお知らせ頂くなんて、とても、あれは、昔の先生方の本当か嘘かわからんけど、まあ頂いたと云いなさったから、昔の先生方の専売特許の様に思うとったにもかかわらず、神様は、私の上に、もうそれこそ、このまま行けば気違いになるのじゃなかろうかと、思う位に矢つぎ早に、お知らせを下さったのです、それは、私が道の教師を金光様から、お言葉を頂いて、そこに一心と定めたところから、そう云うおかげを頂いた。
 今の合楽の方達の場合なんか、少し熱心に信心すると、直ぐお知らせを頂く、ご神夢とか、お言葉を頂いたとか、あれはやっぱり、私がおかげを頂いておるから、私への帰依です、私へ帰依をするから、例えばここに、柿の木あるならば、一つの一枝ですから、同じものですからね、(木篇に市と書いて)柿と云う、私はどうして、皆さんがあげん信者の皆さんが、お知らせ頂くじゃろうかと思うた時にね、そう云う事を頂いた。
 この柿の木に枝が出る、そこにやっぱり同じ様な柿が成る様なもんだと、だから、私と柿が一つになると云うか、云うなら、私に帰依した時に、そう云う働きが生まれて来るんです。
 そう云えば、お徳を受けられた先生方のところには、やっぱり、お徳を受けられた先生方が次々と出来られるのも、同じ様な意味です、同じ系統のご神徳に触れて行かれる。
 又、親に対すると云うか、取次ぎ者に対するその帰依と云うものが、本当に親先生と、言葉だけでなくて、心から、親先生と思うておる、それは、丁度親が、うどん屋に寄って、うどん食べる時に、子供だけ食べさせんちゅう事はない、やっぱり子供にも食べさせる、そして、金は親が払うもんじゃと、頂いた事もある、だから、一心を立つれば、おかげになると云う事が、どう云う事であるかと云うと、皆さんの場合は、如何に親先生に対する帰依する、親先生に対する帰依です。
 そりゃもう、毎日毎日一心に拝みよります、あの事も頼みよる、この事も頼みよると、それも如何にも一心のごとあるけれども、本当の云わば、おかげが頂かれると云う事は、帰依だと思います、帰依する、これが一心です。
 昨日、合楽会でしたが、昨日、そこの中村さんの今度の、正月の合楽だよりが、奇跡シリ-ズに、中村さんのところを取り上げた、今度の奇跡シリ-ズは、どなたの事を書いたらよかろうかと、云うて、竹内先生が皆にお願いに来ました、その時丁度、私は、中村さんのお届けをしよった、ああ、なら今度は中村さんばいと、云う訳で、昨夜それのインタビュ-をやった訳、親子の者をここへ呼んで、そして、竹内先生と幹三郎と二人で、お話を聞いたんです。
 それで、遅くなってから、合楽会に入って来ましたから、皆一通り話が終わって、一通り発表があった後でした、中村さんに話を求めたところが、昨日は丁度、あちらの弟さんが、亡くなられた云わば祥月命日、所謂、帰幽日であった。
 それも、昨日の朝、ああ今日は弟の亡くなった日たいと思うて、朝のお届けがしてあった、それで、今日の4時のご祈念に併せて、お礼を申して頂きたいと、云う事であったから、私はその事をお届けさして頂いとりました。
 昨日は、丁度、私の方の父の帰幽日でもあった、まる2年になるわけです、なら丁度うちのおじいちゃんと一緒に出来るたいと云うて、一緒にさせて頂いた、ところが、丁度3時の研修が遅くなって、3時半ごろから、昨日はお参りがず-っと続いとりましたから、研修が出来なかった。
 それで、3時半ごろから、研修させて頂いて、昨日は、その研修ではなくて、私が一生懸命、今、新しい修行生が、2人入っとりますから、今までして来た信心と云う事を、まあ或る意味で、一新して、そして、合楽で今、云われておる、合楽理念に基づいて、実意丁寧神信心と云うのを、所謂、そう云う信心にならなければ、本当のおかげが受けられない、これは、もう絶対の事だと。
 東京行きをするなら、東京行きの汽車に乗らなけりゃならない様に、そんなにも間違いのない行き方を、いま、合楽では説いておるのだから、ここんところをしっかり、あんた達は、思い込む真で、修行せなければいけないよ、でなかったら、合楽に来た値打ちはないよと、と云うてもう一生懸命、ここで説かせて頂いたんです。
 そして、4時過ぎましたけど、ご神前に出てから、今日の二柱の御霊の事をお願いさして頂きましたら、さっきからここで、一生懸命合楽理念を説いたのはね、今日の御霊に対するご理解であったと云う事でした、2人にじゃなかった訳です、もう朝ちゃんとお届けがしてあるから、云うなら真っ暗なところへ、例えば信心がないし、もういくら遺族の者が信心しておってもです、もう話がわからんとです、真っ暗な中に居っても、もうそれが当たり前の様に思っておる。
 それを、昨日朝のお取次ぎを頂いて、親神様のお話を頂いて、親神様から明るいところへ出して頂いて、今日は、お前達の帰幽日だからと云う、言葉で云うなら、そう云う風じゃないでしょうか、ですから、云うならここまで、来てると云う訳なんです、ですから、お祭りさせて頂く前に、神様が洗脳して下さる訳ですね。
 もう一生懸命に繰り返し繰り返しその事を、ここで、所謂、合楽理念、最近私は、御霊祭を仕えるたんびに、思う事は、御霊様達が非常に垢抜けした、合楽理念に基づいての、ご修行が出来ておられる事ですね、これは、私の父の場合なんかは、もうお話にならん位におかげ頂いているです。
 例えば、昨日、福岡の胃癌でおかげ頂いた、ここ14.5日前から参って来ております、胃癌でおかげ頂いたと云う人が、娘さん、もう縁に付いとられる娘さん連れてお参り、この大祭にお参りする予定じゃったけど、用件が出来てと云うて、生花、お花屋さんですから、二抱き、今、菊の花を活けとります、あれを持ってお礼参拝がありました。
 いやもう、今から、御霊様仕える時に、なら早速と云うて娘にそれを入れさせました、そしたら、吉井の杉さんがお参りされてから、今日は原鶴の小野屋で、着物教室ですか、あちらに先生をしとんなさいますから、あちらへ行かれた、それで、帰りに何気なしに、親先生に何かお土産をと思うて、小野屋で川魚専門ですから、そりゃ、素晴らしい、美味しいものです、ハヤの甘露煮の様なのを、折箱一つお土産に持って来て下さった。
 実を云うたら、川魚、私の方は皆食べきらん、只、私の父だけが、川魚を大変な好物でした、それを、ああ本当に今から、御霊祭を、それも4時何分程過ぎとるところでした、だから、間一髪ハヤのお供えをさして頂いて、おかげを頂いた。
 もういつもの事ながら、それこそ恐れ入ってしまう、兎に角恐れ入ってしまうと云う生活が信心なんだ、時々有難かったと云うて、昨日もそんな、合楽会の時に頂いたんですけど、菊の花を持って、ああおかげ頂いて有難かったと云いよるばってん、もう何日かすると枯れてしまう。
 そして、自分は有難い信心しとる様に思うておる様な信心ではつまらん、もういつも生き生きとした菊の花を持っておられる、おかげを頂けれる為にもです、所謂、更なる信心を頂いたと云う事になりますか。
 話は余談になりましたけど、その中村さんところの、おばあちゃんが、乳癌で、無い命のところを、おかげ頂いて、病院を逃げて帰って来る様にして、帰って来ておかげを頂いた、無事全快のおかげを頂いて、それからまあ、次々と奇跡的なおかげを頂いて、今日に至っておる、だから、どうでも、おばあちゃんが亡くなられた時に、改式したいと云う気持ちがあった、それこそ、お寺さんの方から、まあ断られる様にして、合楽の所謂、金光教の信心に、その時改式が出来た。
 これなんかね、一心が立たなければ、出来る事じゃないです、如何に親先生に帰依しとりますと云うても、改式も出来とらん事では、まあだ、本当に一心に帰依しとるとは、云えないですよ、そうでしょうが、やっぱり、自分どんが死んだら、仏様になろうと思うとる、それでは、まあだ一心の帰依とは云えない、私は、一心と云う事は、そんな事だ。
 難儀が続く、苦労が続く、どんなに精進しても、おかげ頂くかの様に見えて、本当のおかげを頂けない、そこで、道の教師と云う事になって、道の教師の一切合財を、投げ打って、お道の教師にでもなる、そう云う一心を立てるから、人が助かる様なおかげになる、本当に金光教の信心は、世界の名教だと云われるその信心を、こう云う尊い、有難い信心を頂いたのであるから、自分達は勿論、先祖代々の人達も、金光大神の取次ぎに依って助けて頂こう、と云う一心発起が出来た時に、改式と云う事になるのです。
 私は、今日のここで云う一心と云うのは、そう云う一心だと思います、そう云う一心を出すから、私は、直ぐにおかげが受けられると云う事になると思う、只、お取次ぎを頂いて、お願いして、おかげを頂く、部分的なおかげと云う事は。
 今の、花のお供えを持って来た、福岡の花屋さんじゃないけれども、胃癌のおかげを頂いたり、一緒に着いて来る娘さんは、自分の姑親が、15年から、リュ-マチで寝たっきり、それで、そのお母さんの事を、お願いしますと云うて、ほんな里のお母さんを連れて来る時に、お母さんがおかげを頂いとりますとビックリして、その日から、御飯が頂ける様になったとかね、それで、ビックリしてから、こげん効かっしゃるなら、家のお母さんの事をお願いして下さいと云うのが、姑親の事でした、そして、10日ばかりして、お願いに出て来た時には、おかげを頂いて、便所位は一人で行く様になりましたと、云うおかげを頂いとるです。
 だから、直ぐにおかげが受けられると云うのは、そう云うおかげではないですね、もう本当に、一心一家、自分を含めて助かられる程しのおかげ、それには、一番初めに、日本国中のあらゆる神を、信心すると云う様に、仏様も拝みよりゃ、何々様も拝むと云った様な事では、本当の云うならば、一心一家の助かりと云う様なおかげにならないと云う事。
 今日、私は、一心を立てれば、神信心もその一心を出すと、直ぐにおかげが受けられる、今、合楽理念に基づいてと云う事が、繰り返し云われとるが、今まで云うなら、雑行、これが本当だと思うて信心しておった、ああ、金光教の信心は、こうだと思うておった、そう云う様なものを、雑宗と云うなら、一蹴して、今までの考え方を、全部捨てて、合楽理念に基づいて、信心の稽古が出来ると、腹が定まった時に、それが、一心と云う事が云えるのじゃないでしょうかね。     どうぞ。